それは水辺の風景だ。おそらくは、穏やかな川辺か湖畔の風景だろう。画面の中では、水辺にそって一本の道が、ジグザグしながら、やがて大きなお屋敷の前へと続いていく。建物の屋根や階段、そして傍らにある草木などには、貝殻をはめ込んだかのような、不思議な輝きが施されている。その輝きは、小さい頃何故だかよく買っていたカードダスの、時折出てくるレアカードのプリズム色に似ていた。
水面には船が浮かび、道やお屋敷の前には、複数の人間が立っている。みな女性だ。しかし、女性たちは絵筆で描かれたものじゃない。みな、古いセピア色の写真から切り抜かれた日本女性だ。あるいは、彼女たちは芸子で、背後にあるお屋敷はどこか街道沿いの、茶屋か料亭を表しているのかもしれない。
竹原市の町並み保存地区、西方寺普明閣の堂内外陣に安置されているこの絵について、その詳細はよくわかっていない。古い写真を使っていることから、おそらくは、明治・大正の頃に制作されたものだろう。しかしながら、明治・大正の頃に、絵画と写真をあたかもモンタージュするかのような技法を用いた、その先鋭的なセンスには驚かされる。特に人物の配置には、遠近感が意識されていて、大好きな写真家、植田正治の作品を彷彿とさせるものがある。
小京都ともいわれるような、整然とした町並みがあり、最近ではアニメや朝ドラ舞台として有名になった竹原。でも自分にとっては、この謎に満ちた絵の存在が、小京都や聖地巡礼といった、どの要素よりも魅力的に映る。竹原を思い浮かべようとすれば、もはやこの絵のことを意識せざるを得ないほどだ。 そして、この絵と初めて相対してから、一年近く経ったある日のこと、なんとその兄弟といえるものを、偶然発見してしまった。それは広島の宇品を歩いていたときのことだった。その絵には、構図は違うものの、竹原のものと同様に水辺の風景が描かれている。しかし、絵の具は剥がれ落ち、写真も判別がつかないほどやけているなど、状態はかなり悪い。ただ興味深いのは、その絵が、ガラスのような薄い透明な板に描かれていたということだ。いったい、どのような素材を使っていたのか、ますます謎は深まっていく。
さらになんと今年の夏、図らずも尾道の生口島で、今度は2点も兄弟作品を発見してしまった。瀬戸田から少し北東にある、沢という港の近くの、沢八幡神社にそれらは納められていた。いずれも状態は良く、一つには海辺の景色が、もう一つには山の麓に鎮座した大きな神社の風景が、それぞれ描かれている。しかも、神社が描かれているほうには、それを奉納した人物の名前も記されている。
生口島であれば、尾道市の図書館に、島の歴史などをまとめた本もあるだろうから、竹原のものも含め、これらの絵に関するすべての謎も解けるだろう。沢で新たな発見したときは、なぜかそう確信してしまった。しかし、生口島についてまとめた、一番分厚くて詳細な本を調べてみても、それらに関する記載は一切見つからなかった。結局、かつて竹原や宇品について調べたときと同様、すべて空振りに終わった。
今のところ、広島県内で4点、同じような絵を発見している。果たしてそれらは、県内にしかないものなのか、それとも実は、他県にも存在しているものなのか、まったく見当もつかない。最近暇を見つけては、小旅行に出て、似たような絵が見つかるんじゃないかと、神社や寺を覗きこんでいる。でも大抵、期待に胸を膨らませたときには何もなく、かえって何も期待していないときのほうが、見つかることがある。宇品や沢のときも、実際はそうだった。
絵に関するすべての謎を解きたいという願望は、自分の中に確かにある。ただ時々、そんなことよりも、あの絵の中に入り込んでしまいたいとさえ思う。江戸川乱歩の『押絵と旅する男』の話のように。 あなごのねどこ スタッフ MOOさん